FIDESレター 2024年11月号
処分期限迫る!低濃度PCB廃棄物
低濃度PCB廃棄物は令和9年(2027年)3月31日までに処分しなければなりません。
PCBとは?
PCBとはPoly Chlorinated Biphenyl(ポリ塩化ビフェニル)の略称で、人工的に作られた化学物質です。特徴として、水に溶けにくい、沸点が高い、熱で分解しにくい、不燃性かつ電気絶縁性が高いなど、化学的な性質が安定していることから、電気機器の絶縁油、熱交換器の熱媒体、ノンカーボン紙など様々な用途で利用されていました。ところが、1968年(昭和47年)に発生したカネミ油症事件(下記記事参照)をきっかけに、PCBは環境や人体に悪影響を及ぼすことが判明したため、現在は製造・輸入ともに禁止されています。
なぜ処分が必要なの?
PCBを長期間保管すると、保管場所からの紛失や含有機器などの老朽化により漏洩が発生し、人体に及ぼす被害や環境汚染が進行するリスクが高まります。1972年(昭和47年)にPCBの製造は禁止になりましたが、約30年程は地元住民の理解が得られず、処理施設の立地までには至りませんでした。2001年(平成13年に)PCB特措法が公布・施行され、その後国内の処理施設が整備されました。
低濃度PCB廃棄物とは?
PCB廃棄物は、PCBの濃度により「高濃度PCB廃棄物」と「低濃度PCB廃棄物」に分類されます。PCB濃度が0.5mg/㎏から5,000mg/㎏以下であると、低濃度PCB廃棄物の扱いになり、5,000mg/㎏を超えると高濃度PCB廃棄物の扱いになります。
高濃度PCB廃棄物は、中間貯蔵・環境安全事業株式会社(JESCO)で処理を行っていますが、処分期間は終了しております。低濃度PCB廃棄物は環境大臣が認定する無害化処理認定施設及び都道府県知事等が許可する施設で処理を行っています。
カネミ油症事件
カネミ油症事件は、PCBが大きくとりあげられるきっかけとなった事件です。米ぬか油(ライスオイル)中に、脱臭工程の熱媒体として用いられたPCB等が混入したことが原因で、1968年10月、西日本を中心に広域にわたって、米ぬか油による食中毒が発生しました。当時の患者数は約130,000名にのぼったと言われています。
PCB汚染の可能性がある電気機器
PCBが使用されている可能性があるものとして代表的な電気機器には、変圧器やコンデンサー等があります。PCBが含まれている変圧器やコンデンサーは、古い工場やビル等で使用されていました。出荷時点においてPCB汚染の可能性がある電気機器の製造時期は、絶縁油の採取が可能か否かで変わってきます。
PCBの含有が判明したら…保管および処分状況の届出が必要です
調査などにおいて低濃度PCBを含有する機器が判明した場合、それを所有する事業者は、令和9年3月31日までに、低濃度PCB廃棄物を自ら処分するか、若しくは処分を他人に委託しなければなりません。将来的に廃棄される予定のPCB廃棄物を含めて、管轄の自治体に速やかに届出をしましょう。また、廃棄物処理法施行規則第8条の13により、処分するまでの期間は、PCB廃棄物を適正に保管・管理しなければなりません。
なお、環境大臣又は都道府県知事(政令で定める市にあっては市長)は、事業者が処分におけるルールに違反した場合には、その事業者に対し、期限を定めて必要な措置を講ずべきことを命ずることができます。これにより、PCB処理やPCB廃棄物の取り扱いにおいて、法的に定められているルールを守らなかった場合は様々な法的罰則や罰金が科せられるので注意が必要です。
PCB廃棄物処分までの流れ
調査
各技術者等(下記記事参照)に依頼をして、キュービクルや分電盤などを調査します。
判別
銘板情報などから判別、または絶縁油を採取し、PCB濃度を調査して判別します。
処分
無害化処理事業者への処理委託を行い、廃棄物を処分しましょう。
低濃度PCB廃棄物等の調査をするには?
非自家用電気工作物(低圧コンデンサー)
低圧受電設備の分電盤内にある低圧コンデンサーや、単相モーターなどに取付けられた低圧コンデンサーなど、自家用電気工作物以外の機器に関しては、メーカー等に連絡して確認をするか、電気工事業者等に依頼をしてください。
作業場や倉庫にて使用または保管されている古い電気機器に低濃度PCBが残っているかもしれません。調査をしてみましょう!
各届出や適正処理の方法、PCB特措法に関するお問い合わせ先などは、環境省ウェブサイトにてご確認ください!
低濃度PCB廃棄物早期処理情報サイト
ポリ塩化ビフェニル(PCB)早期処理情報サイト
フリートーク・コラム「挑戦と変革の遺志を継ぐ」
並木会長がご逝去されてから、もう四ヶ月が経とうとしています。
日々の業務に取り組む中で、会長の優しさと厳しさが、私たちの心に深く刻まれていることを改めて実感します。会長は、前向きな姿勢とチャレンジ精神を常に持ち続けており、社員や協力会社の皆様一人ひとりを大切にしていました。その姿勢は、私たちにとって今も変わらず、仕事を進める上での重要な指針となっています。
並木会長が常に大切にしていたのは、変化を恐れない姿勢です。
現状に満足することなく、新しい価値を常に創造し続けるという姿勢が、フィデスを成長させる原動力でした。会長は、時代の変化に対応するためには挑戦を続けることが不可欠であると私たちに行動で教えてくださいました。目標に向かって全力で取り組み、挑戦を続けることが成長の鍵だと強調していたことが印象に残っています。
私が特に感銘を受けたのは、並木会長が人とのつながりを何よりも大切にされていたことです。社員一人ひとりを家族のように思い、温かく見守ると同時に、仕事には厳格な姿勢を貫いていました。
会長との個人的なエピソードとして、私はバイクが趣味であり、会長もバイクをこよなく愛していたため、親しみを感じていました。初めてフィデスに訪問した時も、私はバイクで会社に向かいました。面接が終わった後、帰ろうとした瞬間に雨が降り始めた私に、会長はレインコートを貸してくださいました。三十年も前のことですが、このエピソードは、今でも私の記憶に鮮明に残っています。
並木会長がいなくなった今、私たちはその教えを次世代にどのように引き継いでいくかを日々考えています。特に、挑戦する姿勢と変革への意欲は、今後のフィデスにとって欠かせないものです。バイクで風を切って走るように、自由な発想と前進する気持ちを大切にしながら、フィデスは新たなステージへ進んでいくべきだと感じています。会長が私たちに残してくださった教えは、ただの言葉ではなく、行動で示されたものであり、私たち全員にとって大きな財産です。
これからも私たちは、並木会長の遺志を受け継ぎ、会社の未来を切り開いていく所存です。挑戦を恐れず、新しい価値を生み出し続けることで、会長への最大の恩返しができると信じています。そして、会長の志を胸に、フィデスの未来を築くため、仲間と共に一歩一歩進んでいきたいと思います。
今月の担当は…
取締役 マネージャー
小林 裕
それってドーシテ?「らちがあかない」のドーシテ?
代表取締役社長 細矢 充
フィデス社長コラム
『経営の原点』から並木鷹男会長を偲ぶ(5)
“何処からその発想が出て来たのか分からない。昔から“突飛”な発想をする細矢現社長が企画会議で突如言い出した。『社長、もっとアメリカ的な経営をしてください』と。”(『経営の原点』より)
確かに生意気にもそう伝えました。企画会議とは、毎年1月末に主任クラスから経営陣が参加し、各部署や現場の意見を交換してわが社の問題点や課題の解決策を導き出す会議で、1泊2日で行われていました。残業が多い、現場にFAXが欲しい、車が古いなどと、今にしてみれば他愛無い議論を深夜近くまで交わしました。その翌日は、参加者一人ひとりに『ここを直した方がよりよくなる』『あなたにはもっとこうしてほしい』というソフトラブ、ハードラブの手書きのメッセージを交換するのです。これはラブレターのようなもので、参加者全員からの有難いメッセージを参考に、“1年の抱負”を公言して企画会議を締めくくるのです。そこで若造が社長宛に『アメリカ的経営をしてください』と書いたのだから、さぞかしびっくりしたと思います。
当時の建設業界の労働環境はハラスメントどころではなく、我々設備業者はまるで“味噌っかす”扱いでした。 主体(建築)工事業者の横暴や電気屋呼ばわり、設備業者の徹夜作業はあたりまえ、建築の監督のミスや能力不足をのしわ寄せが、設備業者や設備の職人さんにくるのです。私はそれに我慢しかねて、親ほど離れた建築の監督員と喧嘩になることも度々ありましたが、ほとんどの設備業者はこのような理不尽な言動を黙って受け止めていたようでした。
並木社長はとてもスマートな考え方をもった方であると感じていたので、その思いの矛先を並木社長に向け、助けを求めていたのでしょう。建設業界を変革してくれると強く信じてのラブレターだったのです。
並木社長は「このままではわが業界には未来はない。社員を幸せにできない。」と建設業界の当時の状況に危機感を抱いていました。社長はさまざまな本を読み漁り、トム・ピーターズの『経営破壊』という書籍と出会いました。アメリカ企業の「既存のビジネスモデルを破壊し、新しい価値を生み出す経営スタイル」は、日本の建設業界にも必要なものであるとし、経営幹部と社員との勉強会が始まりました。勉強会はとても意義があり、内容に賛同できるものでしたが、アメリカの企業がモデルで著者がアメリカ人なので、当然のように横文字が並び、その難しい内容に私は僻僻としていました。出来れば逃げ出したい思いでしたが、それは許されない雰囲気が漂っていました。
そんな時、並木社長は「よし!全社員でアメリカへ勉強に行こう!」と突然言い出したのです。驚く私に向かって、「アメリカ的経営をするんだろ!」と言い放ち、すぐに研修旅行の計画に着手し、旅行会社に連絡して準備を始めました。さらに「どうせ行くなら、アメリカの電気設備会社を訪問し、建設業界の働き方を肌で感じよう」と提案、その発想と行動力には本当に驚かされました。もちろん、物見遊山の旅行ではないので、全社員がアメリカの経済や建設業界、視察先の電気業者への質問事項などを急いで準備し、英会話も少し勉強しました。そして、いよいよ1996年、アメリカ研修旅行当日となったのです。果たして、どうなるものか???次号へ続きます。